2022.07.28
まちを変える
“リノベーションまちづくり” はじまりの地、メルカート三番街 vol.1

らいおん建築事務所が、全国のまちの様々な資源を活用して地域の再生に取り組む「リノベーションまちづくり」。その「リノベーションまちづくり」が生まれたのは、10年以上前、2011年6月、福岡県北九州市小倉の魚町商店街でした。当時、代表の嶋田は、勤めていた建築事務所を退職し、独立したての建築家。そこに、嶋田の故郷である、福岡県北九州市でも商店街や商業施設から人が遠のきはじめ空き店舗の増加に直面をしていたのでした。そして、五里霧中ながらも嶋田が思いついたプランにまちが動き出していきます。地元らしく、話の中には嶋田のお父さんや同級生も登場しながら産声をあげた「リノベーションまちづくり」。そのはじまりのストーリーをご覧ください。

 

2000年代、商店街に翳りが見えてきた時代

ー 中屋ビルをリノベーションされた、きっかけを教えていただけますか?

Photo by Megumi Tange

梯(かけはし):2010年頃、ビルの1階から4階まで、32年間、テナントとして入ってくれていた山口県にある婦人服屋さんが、撤退することになったんです。
地下フロアをゲームセンターにした頃から、嶋田さんのお父さんにはお世話になっていて。ご相談したところ、息子さんの嶋田さんとお話しすることになりました。

嶋田:そうでしたね。撤退の半年から1年位前に、父から連絡がありました。
確か、入ってくれるテナントを探していて、ユニクロさんとかにも声を掛けていらっしゃったときですね。

ー 1階から4階まで、一気にすべて空いてしまうのは、かなり辛いことですよね。

梯:そうですね。やはり商店街にある古いビルで、耐震も充分でないので、大きいテナントに入ってもらうのは非常に難しかったのが実情でした。

Photo by Megumi Tange

嶋田:僕は、父に呼ばれて小倉に行って、当時は、建築のデザインで解決しようとしたものの、まったく的外れで(笑)。そして、梯さんのお父様がお亡くなりになったり、僕の祖母もガンになってしまったり、大変な時期が重なって何もできないまま終わってしまった。
あぁ、何もできなかったと心残りに感じていたら、四十九日を過ぎた頃に梯さんが呼んでいると。それで会いに行ったんですね。
その間に、鹿児島のデパートビルの再生事業のお仕事をする機会があって。その仕事を通して、ビルの再生は、デザインの話ではないことも分かり始めた頃でした。
当時から僕も考えが変わっていたので、小倉メルカート計画として、「若い起業家のための場所を作らないと、商店街は衰退してしまう」と正直に伝えました。

人の心を動かすのは、建物ではなく人

嶋田:小倉メルカート計画という企画書を作って、梯さんに見せました。

ー kokura mercato 計画…?

嶋田:はい。kokura mercato 計画は、当時の魚町商店街をはじめとした日本全国の商店街の状況や、まちがシャッター街になっていく問題に対して地域にいる独自性をもった若くてエネルギーのあるアーティストやクリエイターの場所にすることで再生を図っていこうという商店街の再生計画でした。
僕としては、もちろん自信を持って提案した事業でしたが、地元の皆さんに受けいれられるかどうか、半信半疑でした。すると梯さんが面白いからやってみようって、言ってくれて。

梯:今まで様々な方からハード面の提案は色々いただいたのですが、コミュニティを作るところからソフト面も含めたトータルのご提案は初めてで、素直に面白いなと思いました。うまくいくかわからないけれど、ひとまずやってみようと。

嶋田:それで、家賃を地価相場の半額位に設定してもらって、僕が小さなテナントさんを10組位、集め始めることになったんですね。

ー なるほど。小さく区切って10組くらいに。


2010年頃、アーケード撤去前のサンロード

嶋田:中屋ビルは、サンロードという少し繁華街の裏通りっぽい商店街に面していて。元々そこから小さく商いを始めて、軌道に乗ると繁華街に移転していく、今でいうインキュベーション施設のような存在だったんですね。昔からそういう建物だったんですよ。

ー もともとあった文化をカタチにしたんですね。その10組は、すぐ集まったのですか?

嶋田:当時、まだ駆け出しだったこともあって、必死に走ってました。(笑)

vol.2へ続く)

 Text by Motomi Matsumoto