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雑司が谷でリノベーションスクール

豊島区の高野区長が消滅可能性都市に指摘された事への対策として、昨日、リノベーションまちづくりに着手しリノベーションスクールを開催する事を発表した。

池袋経済新聞の記事

満員の通勤電車に乗る事が生理的に出来ないという理由から、奥さんの妊娠出産を機に、ほんとにひょんなことから住みはじめた雑司が谷のまちなんだけど、どうせしばらくはもう住み続けなければならないし、子供たちにとってはふるさとにしてあげたいと思うようになったので、このまちがどうやったら自分たちにとって楽しいまちになるかを考えるようになった。

2012年の5月だったと思う。清水さんに呼んでいただいて、東洋大学大学院経済学専攻の公民連携専攻の「民間プロジェクト論」という講義にゲスト講師としてお話する機会があった。小倉魚町ではじめた取り組みについて、あのときはたしかメルカート三番街とフォルム三番街と、よりみち市とポポラート三番街の事を話した。小さな実践のコト作りについてだった。リノベーションスクールも二回目が終わった後だった。まだまだ一つの成果もあげていなかった。そのあとのゼミで、ゼミ生の方々が、路地のまちを対象にフィールドワークを行う検討をされていた。そのときに意見を求められて何となく発したのが「僕の住んでいる雑司が谷も路地のまちで、なかなかしんどいんです」的なことを話した気がする。自分の住んでいるまちに起こっていることと小倉魚町で起こっている事の共通点があるんじゃないかと感じはじめた時期だった

その数週間後のたしか土曜日だった。忘れもしない6月2日の誕生日の直後だった。ゼミ生10人くらいと清水さんがオープン間近のあぶくりの現場と、雑司が谷のまちあるきのためにやって来てくれた。1時間ほどまちをあるいて清水さんとゼミ生のみなさんとたしか懇親会をして解散した記憶がある。

そして、8月の第3回目のリノベーションスクール@北九州が終わった後の秋口に、清水さんから受けたアドバイスは「雑司が谷でなにか起こすのであれば、子育てをしているお母さんたちと一緒にやりなさい」というものだった。暑い夏の最中にいろいろと考えを巡らせた結果そういう結論にたどり着いたと僕にこっそり教えてくれた。

翌年、4月、上の娘の父母の当番期ということもあって、僕は保育園の父母会長になった。お母さんたちを巻き込むためにどうすればいいか全然分からなかったけど、保育園の父母会というパブリックな場でなにかできるかもしれないと思ったからだった。

同時並行で奥さんがあぶくりをオープンさせた。そして、これだけは自信があるのだけど、決して呼んでないのに突然、青木純があぶくりのオープニングに姿を現したのである。なんでだかは分からない。近しい知り合いはたくさんいたのに全く接点がなかった世界の青木と僕は奥さんのあぶくりをきっかけに知り合ったのである。たぶん、今から思い返すと、彼はカスタマイズ賃貸をさらに発展させて、オーダーメイドエリナを大坪夫妻といっしょにつくっていた時期だったと思う。

彼の活動を知って、僕はHEAD研究会の七つの予言に登壇してもらった。この奇怪なマンションオーナーの存在を清水さんに知らせて、紹介したのだった。
その後青木にはリノベーションスクールでユニットマスターを無理に続けていただいた。僕は、絶対いつか自分たちのまちで何かことを起こすつもりで居たからだ。

同じくあぶくりのオープニングの時期に、木下斉が早稲田のこだわり商店店主の安井浩和をあぶくりにつれてきたのだった。安井くんとはじめてした会話はたしか商店街のシャッター街についてのオーナーと店主の意識と課題についてだった。そこで全く持って意気投合したのを覚えている。

その後もことあるごとに清水さんに雑司が谷で起きている事を雑談でお話ししていたのだけど、あるとき、清水さんが僕にしたアドバイスがその後を決定づける一言だった「せっかく面白い人たちがいるんだから、雑司が谷の中だけで閉じて考えていないで都電沿線のまちをネックレスのようにつらなるスモールエリアの連続体としてとらえたら面白い事がおこるんじゃないか」というものだった。

早稲田・鬼子母神・向原。どこも寂れた商店街とセットになった住宅地を抱えている山手線の内側の超都心縮退エリア。

ここで空き家を使って東京の都心に住んで働いて暮らす。新しいライフスタイルの発信ができるのではないかという仮説をたてたわけである。そして3人で共同出資して家守会社を立ち上げた。それが都電家守舎。目立ちたがりやの青木が社長になった。昨年6月のことである。

子育てをしながらやり甲斐を持って働ける場所を自分でつくると決心し会社をやめた玲子さんは、あぶくりを通じて、このまちの子育てするお母さんたちの支持を集めはじめ、同じようなお母さんたちの働く仲間も得て、雑司が谷夜の学校と称して何度も何度もリノベーションやまちづくりに関する話をして若い人たちの集まる場と人がつながる場をつくりつづけた。僕は魚町で得た経験を元に、目白ホワイトマンションの再生と、このまちから逃げない態度を明確にするために買った借地の一戸建てのグランマの再生を行っていた。

そのさなかに発表された「消滅可能性都市」なのである。

そこからは急転直下の勢いで区長に呼ばれ副区長に会いにいき。僕らのこの3年間の小さな取り組みの実績が、豊島区の本質的な地域経営課題を解決するかもしれないと、区が判断しただけのことである。

子育てをしている主婦がグラデーションをもって働くのが良いと勝手に思っていた僕は可能な土曜日だけご主人に子供預けてらいおん建築で働いてくれるお母さんを探していて、経理の仕事をお願いしていたので。雑司が谷に住んで子育てをしながららいおんで働いてくれていたそのお母さんたち二人を含む、実に5人のお母さんたちが子供の成長によって手狭になった家を引っ越すタイミングで、この雑司が谷を去ったのである。たったの二年間で僕の知り合いだけでその数である。これが消滅可能性都市の課題の本質なのである。

リノベーションスクールがぼくのまちで開かれるのである。
子育てをしているお母さんたちがこのまちに住み続けるためにどうすれば良いかを考えれば良いということになったのである。公式に

僕たち家族の問題が豊島区の課題と見事に重なった瞬間なのである

嶋田家がどうすれば、にこさんやいまさんのお友達の家族たちがどうすればこのまちに住み続けられるのかというぼくらにとっては家族の直接的な課題が豊島区の政策課題になったのである。

ちいさな点と点が、見事なまでに線で結ばれて面になって。すべての出来事が必然であったかのように一つの果実となって結実したのである。ほんとうにこのたった1ヶ月間の出来事なのである。

ミラクルが起きているのである。魚町で起こり続けたミラクルがここでも起こってるのである。ヨーダはほんとうに半端じゃないのである。

とにかく動いていたらなにか起こるのである。考えてる暇はないのである。